【新国立競技場】「なぜ実務家たちは、ザハ・ハディドを支持するのか」建築家・藤村龍至さんに聞く

なぜ、実務家はザハ氏を望むのか。その理由を聞いた。

2520億円という巨額の建設費をめぐって、白紙撤回となった新国立競技場。見直し後の建設計画について、政府が検討を進めるなか、建築家やゼネコンなど業界関係者の間では、「白紙撤回となったザハ・ハディド氏の案を活かせ」という声が根強い。

「鶴ヶ島プロジェクト」などの活動で知られる建築家の藤村龍至さんも、その一人だ。

なぜ、実務家たちはザハ氏を支持するのか。その理由を聞いた。

■人を選んで、一緒に作っていく。そういうコンペだった

――今回の白紙撤回に至る経緯で、専門家の知見と、一般層の考えるあるべき姿に、大きな隔たりがあると今、感じています。たとえば「コンペできちんと費用を見積もりができないのはダメだ」と批判の対象になりました。あのコンペについて、建築家としてどう思いますか?

あのコンペは「デザインコンクール」という少し変わった名称がついていて、まず、提案された大まかな考え方とイメージをもとにリーダーとなる設計チームを選ぶのが目的のコンペでした。そこでまずザハ・ハディド事務所が「デザイン監修者」という肩書きで選ばれ、その後の「フレームワーク設計」という段階でもう一度プロポーザルコンペが行われて、要件を整理しつつザハ事務所ら海外チームと連携を取りながら詳細の設計作業を進め確認申請や見積もりを出すための実施図面を作成するチームとして梓設計、日本設計、日建設計、アラップジャパンの4社からなる設計JVが日本側のチームとして選ばれたんです。それはとても特殊なプロセスで、そこが専門外の方にとっては伝わっていなかった。

コンペで比べられた絵は詳細な設計をもとにしたものではなく、あくまでもおおまかな考え方を示すものなんですね。サッカーの国際試合をやり、陸上競技の国際大会もやり、 ラグビーのワールドカップをやり、 音楽イベントもやれる東京都庁に匹敵する29万平米の床面積を持つ施設、と要求をてんこ盛りにしていた発注者の側では技術的なスペックも詰め切れておらず、予定していた1300億で足りるかどうかもわからない。だから最初に考え方だけ選んで後で調整していくというのが「デザインコンクール」と「フレームワーク設計」の趣旨でした。

そのイメージが伝わらないまま、フレームワーク設計の進捗とともに出てきた実施案のパースが、一番初めのザハ案の絵が持っていた伸びやかなテイストとは違う感じででてきた。そこに予算オーバーの懸念が出てきて、ザハへの不安、ザハの思う通りにやらせない日本人の設計事務所や発注者が悪いと、いろんな批判が渦巻いたということでしょうね。

コンペで選ばれたハディド氏の原案

――私も素人目で、白紙になった設計案は「元の絵とぜんぜん違うな」という感想がありました。

普通はどれくらいの予算規模でどのような設備にするか、発注者側の与件をしっかり全部決めた上でコンペをやるから、実際に建つものに近い絵が出てくるんです。新国立の場合は、とても大きく、かつ機能的にも前例の少ない特殊なプロジェクトだったから、デザインの方向性をリードするチームと大まかなイメージを固めておいてから、発注要件を詰めていきますという、検討段階の段階でコンペが行われました。だから、当然のようにザハも敷地をはみ出すような絵を描いてインパクトをアピールしたし、審査委員会もそれを承知で形が大きく変わることを前提に選ばれ、実際に形も大きく変わりました。これは建築家のせいではないです。

2014年にJSCが作った修正案。白紙見直し前までは、この形で建つことが決まっていた

――要件を詰めずに、コンセプトだけを募集した。それはスケジュール的な問題でそうせざるを得なかったということなんでしょうか?

オリンピック・パラリンピック招致活動の書類に絵が間に合ってなきゃいけない、ラグビーワールドカップに間に合わせたい、など諸々の事情でしょうね。

■「値段が上がっていくプロセスは、変には思わなかった」

――「なぜコンペで見積もれなかった」「なぜどんどん値段が上がるんだ」という、見積に関する批判も大きかった。ただ、大規模建築で、正確に見積もりを出すことの難しさは、実務家の皆さんは揃って指摘しますね。

小さいものでも難しいものですよ。我々も時々、困ってしまうのが「あなたもこれまでの経験があるでしょう。経験でだいたいいくらか今ここで言えないの?」と強い言い方をされるとき。発注に慣れていない方ほどそういう乱暴な言い方をされます。ハウスメーカーや工務店の商品化住宅のように毎回、同じような仕様で、同じような敷地で大量に設計をするならすぐに予想できるかも知れません。でも、毎回条件が違い、震災やオリンピックで市場が混乱している中で一品生産の建築を設計しようとするときに、ざっくり数字を出せと言っても無理がある。ましてや今回のように規模が大きく、新しい技術的なチャレンジを多く含んでいたらなおさらです。

工事費の見積もりが難しいのは施工者の皆さんも同じ。新国立競技場のような、めったに造られないような、しかも新しい要素がふんだんに入ったプロジェクトだと、実際に詳細な設計がなされて具体的に業者と交渉を積み重ねるまでは正確な見積もりはわからないのではないかと推察されます。

だから、スペックが詰まってない段階の絵で見積もるなら安全を見て3000億円、規模を29万平米から21万平米に小さくして設計側が見積もったのが1625億円、さらに施工者を選定して詳細に設計した段階で見積もったら2520億円、と見積もり価格が乱高下するプロセスは十分な検討の時間がないなかで出させた数字だから仕方ないという感じだったと思います。設計が進んで行けば数字は落ち着いていくものですが、今回は報道が早すぎて、数字が一人歩きした感があります。

■資材高騰について

――建築費が上がった要因に挙げられるのが、人不足と資材高騰ですね。今、建築家としてお仕事されていて、これはどれくらいシビアですか? 実感として。

今は建設業全体が世代交代の時期。高度成長期を支えてきた建設作業員が退職の時期を迎え、市場の縮小を見越して人を減らしていたところに震災復興とオリンピックが重なっているので、建設業界全体が本当に立て込んでいて、施工会社に相談しようとしても工事費の見積もりすら出してもらえないことも多いです。こちらで締め切りを設定するなんてもってのほか。「申し訳ないんですけど、この日程で見積もりの締め切りを設定させていただいてもよろしいでしょうか」とお伺いを立てても、「無理ですね」って。結局、施工側が出せる日まで待たなきゃいけないみたいな状況です。発注量が多くて受注が追いついていないから、施工の立場が強いんです。

以前は発注者・設計者・施工者という順序で上下関係があったんです。お金の流れる順番ですね。発注者が立場が上なので問題があれば上に上げればよかった。でも、今ではアメリカなどを中心に発注・受注という関係があってもフラットにフェアな交渉をするべきだという考え方が出てきて、プロジェクトを円滑に進めるために対等に責任をシェアしようという考え方になってきています。

本来発注者は客だからとただ待っていればよいのではなく、プロジェクトの進行に必要な予算を確保し、発注内容の無理がわかったら要件を減らすように調整するという大事な仕事があるんです。設計者はそれを法的に技術的に可能な設計を作る義務があり、施工者はそれを滞りなく完成させる義務がある。それぞれに分担と応分の責任がある、という考え方です。新国立では、JSCが発注者としての責任を果たせなかったということです。見積もりが膨れ上がっていたのに、要件を調整できなかった。

その観点から見ると「ゼネコンが儲からなくても『日本の国のために頑張る』と言ってほしい」という安藤忠雄さんの記者会見での発言は、真意のほどは計りかねるところがありますが、ちょっと昔の考えにも聞こえますね。今の感覚でいうと、受注者も頑張るけど、発注者や設計者もリスクをシェアして全員でプロジェクトをつくっていこうよ、というフラットな一体感が求められていると思います。

コンペの審査委員長を務めた安藤忠雄氏

■JSCのプロジェクト管理能力が原因

――発注者、設計者、施工者。そこは3者の関係上、発注者、つまりはJSCや文科省がリーダーシップを持ってやっていくべきだったというのが根本でしょうか?

そうだと思います。よく言われているようにJSCが大型案件の発注に不慣れだった。要件定義を受注者側の進言を考慮しながら一緒に進めるような調整力がなかったんでしょうね。もっとも、オリンピックのメインスタジアムというのは政治力が最も強く働くタイプのプロジェクトなので無理もありません。

――ザハ事務所は安くする案も用意していたのに、それを聞いてもらえなかったということを言っていました。設計者としては、「まずいな」と思ったらオプションを用意するものですか?

それは設計者の大事な仕事です。ザハ事務所はロンドンオリンピックのプールを設計する際に3回設計をやり直したと言います。今回のチームももちろん、改善案を提案していたでしょう。たぶんJSCが、「もう上に了解を取ってしまっているから変えられません。そのままなんとかして下さい」と言ってなかなか応じなかったこともあるんじゃないでしょうか。

――「進めるしか権限がありません」と言って……。

そういう回答になってしまったんだろうと推察します。組織型の意思決定の弊害が出てしまったんでしょうね。

ザハ・ハディドが設計したロンドンのアクアティクス・センター

■ゼネコンを先に決めるのはやっぱりマズい?

――ザハ事務所が、設計が決まっていないのに施工するゼネコンを決めていて競争がなかった、だから価格が下がらなかった、とコメントしていました。妥当だと思われますか?

一般的に競争入札によって値段を下げるというのは全世界共通の駆け引きの手法でしょう。ただ今回は曖昧な部分も多い、難しいプロジェクトなので手を挙げる施工業者が少ないなど特殊な状況が多かったのだと思われます。

今回のように施工業者を早めに決めて設計者と、施工を一体にして責任をシェアしていくやりかたは、世界的な流れでもあるので当然ザハ事務所も知っていたと思います。ただ、一体型の設計というのはいい面と悪い面があって……。

いい面は、設計側が的はずれな提案をしないで済むこと。設計と施工が一緒になっているので、施工側の条件をあらかじめ設計に組み込める。だから、通常、何往復もする設計と施工の間のやりとりの量が圧倒的に減って、時間を早められるとされているんです。

ただ、悪い面もあります。施工の力が強くなりすぎて、施工の言いなりになってしまうことがあるのです。たとえば、設計側が「こんなにたくさん空調いらないでしょう。シミュレーション見てください、無駄ですよ」と訴えても、施工側がそこで稼ぎを取りたいときには、オーバースペックでもあえてたくさんの設備を入れてしまうようなこともある。そのような場合、誰も止められない。

設計と施工がしっかり分離発注されて予算の執行権限を設計側が持っていると、設計者である建築家は施主の代理人になって、まるで弁護士のように施工業者に改善を要求することができるので、その緊張関係の中で価格を下げたり、予算の使い方のバランスを取っていくことができる。でも、一体となっているとそういうことをしにくくなって、最終的に予算の執行権限のある施工側が強く、設計の立場が弱くなることが起こります。

もちろん逆のパターンもあって、施工側からみて合理的ではないのに設計側の主張でバランスの悪い施工を要求することもあります。十分な設計期間があれば話し合いで歩み寄ることができるのでしょうが、時間がないとそれがうまくいかなくなることが多い。

でも今は一括発注が世界的な流れになりつつあって、例えば日本の公共建築などでも設計者から見てとてもバランスの悪い、お粗末な建物もすごく増えているんですよ。でも、発注者側が出来上がりのクオリティやバランスを判断できずに、設計・施工を一体にしたから工期は短くなったとか、安くなった、と満足をしている場合も多い。明らかにバランスが悪かったり、設計面で検討すべきことを検討していないような手抜きが起こったまま建築ができていることもある。

これはハッキリ言えば、発注者側が設計と施工の緊張関係のある建設プロセスを避け、少しでも責任を回避し、安く、早く、と楽をしようとしてきた結果なんです。1990年代にはゼネコン汚職が社会的に問題になって一括発注はダメだ、きちんと透明性のある業者選定をしよう、という積極的な機運が発注者側に生まれ、1995年の「せんだいメディアテーク」のように緊張感のあるいい建築作品が集中的に生まれた時期もありました。それは直前に仙台市長の逮捕というショッキングな出来事があったから市民の監視も厳しかったし、職員たちも気合いが入っていたからオープンコンペを行って最後まで公開審査を行ったり候補作品を事前に市民にも公開したりと積極的に情報公開が行われた。でも20年経ってまた一括発注の流れに戻りつつある。

やはり一括発注だとワンストップで、責任も全て施工者に押し付けることができるので発注側にとっては楽なのです。その分、建物の利用者が結果的に不利益を被っていることもある。だから、設計者は一括発注には反対の人が多いです。

伊東豊雄氏が設計したせんだいメディアテーク

――それが、ザハ事務所が「先にゼネコンが決まっていた」と非難した背景ですか。

そうだと思います。

――同業者として、ザハ事務所の言い分はよく理解できる?

きわめて一般的な主張だと思います。

――ただ、設計よりゼネコンを先に決めてしまった背景には、人手不足、資材高騰が深刻だから先に確保せざるを得なかった、そのほうが安いんだ、という意見がありますよね。どう思われますか?

それは今、JSCだけじゃなくて発注者さんがみんな言うんです。工期が短い、コストをコントロールするためにやむを得ない、と。これは往々にして施工側の一種のポジショントークに影響された言い方でもあるんですよ。一括発注方式を推進したい側のキャンペーンなんです。施工側は、その方が立場が強くなるので。

もちろん、設計者と施工者というのは常に綱引きしているようなところがあって、設計施工の分離発注で予算オーバーの事例が重なると施工側はキャンペーンを張り、逆にゼネコン汚職や姉歯事件などがあると設計側は逆のキャンペーンを張るのです。どちらかに権力が集中しすぎないようにするには両者の緊張関係が必要で、結局はしっかりした設計期間を設けるとかふさわしい予算を時間を掛けて検討する、というような発注者の見識が問われるのです。

■「ザハへの不当な個人攻撃が、後味が悪かった」

――資材高騰、人不足、要件調整の不足。こうした要因が重なって、白紙撤回に至ったわけですが、決まった時はどのように思いましたか?

市民の反対運動でプロジェクトが中止になることは世界中で起こること。でも、今回の件が、今までの建築論争とちょっと違ったと思われるのが、ネットユーザーが有名な個人を攻撃し、その言説に引っ張られる人が続々と結びつき、大きな流れになることによって、大衆が集団極性化し、極端な言説を支持してしまったことです。かつてアメリカの憲法学者のキャス・サンスティーンはこのような現象を「サイバー・カスケード」と呼びました。

今回も反対派のブログでザハのアーチが槍玉に挙げられると、アーチの基礎が地下鉄にぶつかる、アーチのせいで見積もりが高騰したなどという不確かな情報が一人歩きし、ザハ事務所が声明を出すたびにヘイトスピーチが沸き起こるようになってしまった。ああなってしまうと専門家がどれだけ擁護をしようが、中身の話ができなくなってしまう。それはとても恐ろしいことだと思いました。

もちろん、反対されていた方にもいろいろ真っ当な動機があったと思うんです。

槇さんの議論も、最初は神宮外苑の歴史的な文脈を考えるべきだという問題提起でした。反対運動を展開されていた方には高額の費用に対する反対だけでなく一市民としてあの場所をもっと安らかな場所にしたいというという立場の方もいらっしゃいますし、あるいは建築家としてザハの過去の作品を見てあの場にはふさわしくないと思ったという人もいらっしゃるでしょう。国の競技場なので、国民が自らの見識に基づいて主張をすることは大事なことですし、いろいろな意見が提示されるべきだと思います。

でも、それらの多様な意見が様々なメディアやそれらを煽ろうとする一部の個人の力によって「ザハが悪い」「安藤が悪い」という不当な個人攻撃の形で統合されてしまい、最後は「ザハ下ろし」の大合唱になってしまったのがなんとも後味の悪い結末になってしまった。見積価格の高騰はキールアーチが問題なのではなく、キールアーチの提案は求められたスペックに対するむしろ合理的な判断によるものであって、ザハチームの案には2年間の設計の蓄積があったんだよ、という事実を広く知ってもらうのは、設計を仕切り直している今、とっても大事なことだと思います。(8月25日、ザハ・ハディド事務所から設計案の正当性を主張するビデオとレポートなどの資料が公開された)

■「建築」するということ

――「2年間の詳細な設計を無駄にしてはいけない」。このことはザハ事務所も主張していました。「詳細な設計」というのは具体的にはどういうことを指すんですか? ザハと設計チームの積み上げてきたものは何なのか。

「詳細な設計」というのは一言で言えば、ひたすら、検討と調整の日々ですよ。

具体的に言えば、例えば今回の競技場は高さが60メートルを超えているので「超高層」という行政上の括りになる。そうなると、行政と構造面だけでも多くの協議が必要になるんですね。

それだけじゃない。クライアントや関係する団体、消防や警察、周辺住民やメーカー等との協議もたくさん生じます。例えば消防とは催し物が終わったあとに何万人のお客さんがこのように外に出て、非常時には最大、これくらいの人数がここを避難するから、そこの幅はこのへんで非常用照明はここにつけてという防災協議をして、警察とは駐車場の施設はどこで、入り口は交差点からこれくらい離れているから交通には支障はありませんよ、工事の際にこのくらいの大きさの車両が入るけど、ここを占拠すると交通の邪魔になるからこういうスペースを設けて……というように、そういう細かいことを、設計、施工、行政なんかとやり取りを積み重ねて、ようやく図面になるんです。

建築家の設計事務所っていうと、模型作ったり絵を描いたりってイメージがあると思うんです。でも、日中はほとんど協議ばっかりやってるんですよね。設計期間が短いと図面を描く時間は夜中しかないということもあります。

こういう、膨大な検討、調整の積み重ねが「設計」なので、これを白紙に戻したら全部やり直しなんです。

ザハ・チーム(=ザハ事務所+エンジニアリングのアラップ、日本側の日建設計+日本設計+梓設計+アラップジャパンによる設計JVの設計チーム)が2年間も設計作業を積み上げてきて、今までの協議の積み重ねも、手がけた担当者もまだ残っているわけですから、その蓄積を活かすべきです。もちろん、要件が変わったらやり直すことも出てきます。でも、これまでの蓄積があれば、すでにコンセンサスが取れてるのでスムーズですよね。これがいきなりゼロになって、関係者の名刺交換から初めて……というのは気が遠くなりますよね。

その現場感覚が想像できるから、建築業界の多くの人たちは、今までやってきたチームが続投するべきだと言ってるんだと思います。他社が転ければ自分のところに仕事が転がり込むかも、と思うような人は、設計チームの膨大な設計作業の苦労を考えると皆無だと思います。

――そこも素人の方と業界の方の溝があって、素人は設計をすることは図面を引くことだと。私もそう思っていました。「図面ならゼロから引けばいいじゃん」と。しかし「設計する」というのは、各所の調整に膨大な時間がかかると。

設計という仕事は、8割……いや9割は調整です。図面を描くのは、その調整の結果を落としこむ、最後の仕上げみたいなもの。

調整して図面を描いて、その図面を持って行って関係者が集まって打ち合わせをして、赤が大量に入って、というやり取りです。何度も打ち合わせをして、ようやく赤がなくなって、コンセンサスが得られた証拠として図面が納められるわけで、せっかく赤がなくなって関係者の合意と了承が取れた図面の集積があるのにそれをリセットするのはいかにも非効率です。

■じゃあ、どうすればいいのか

――そもそもスケジュール通りで厳しかったものを白紙にした。時間を考えると、政府が言うようにゼネコンが設計と施工を一緒にやる、これしかないんでしょうか。

問題は施工が入るタイミングです。最終的に設計と施工が一緒にチームを組むしかないのですが、最初から施工が入るのかある程度設計が進んでから入るのか。どちらもそれぞれリスクがあるので何とも言えないですね。確実に言えるのはザハ案の設計検討は終わってるわけですから、同じチームで見直したスペックをもとに減額案の設計をして、ある程度進んだところで施工が入るっていうのが理屈から言って一番早いし、確実で、いいものができる。

ザハ・ハディド事務所が公開したデザイン

――早くていいものができる。

それは確実です。2年間しっかり蓄積してきたチームで提案するものと、新しいチームで5カ月間で間に合わせで作ったものでは大きな差が出るのは目に見えています。でもザハのせいだという世論を信じて決定を下してしまった政府がもう一度決定を覆すのは難しいでしょう。

コンペをやり直しということは、ザハ案をなかったことにして、ゼネコンを巻き込んで施工費用や納期を優先させた案をつくり、反対されないようにしよう、という考えでしょう。

短い期間で施工の論理を優先させるとどうなるか。作りやすさが優先されるから、使いやすさを求めてもっと検討をしようと設計側が提案しても、施工側の意見が優先されて意見が通らないのです。それは施工者のエゴではなく、施工側が大きな責任を負わされているのだから当然の反応だとも言えます。

結果、陸上競技場としてもサッカー場としてもイベントホールとしても中途半端で誰にとっても使いづらく、誇りにもならないものが生まれてしまう可能性の方が高いのではないでしょうか。規格化して、規則的で単純なかたちにして、作りやすいけど周囲には圧迫感があり、ピッチは遠く、飲み物を買うにも不便で、チケットが売りにくく収益が上がらないというスタジアム。ザハチームはロンドンやこれまでの国内外でのスタジアム設計で培った経験を活かして、そうならないように2年も掛けて研究と提案を重ねてきたはずなのに、実にもったいない話です。

――魅力のないものをコストダウンして作ると言って、でも納期がキツいからコストは上がり、今度こそ時間がないから誰も止められず、結局、高くて面白くないものができる……。

そうなっちゃうでしょうね。実際、ロンドンのメインスタジアムがそうでした。

今のままだと「あのときはザハが悪いと思っていたから、結果的に高くついたとしても、あのときザハを外したことは正しかった」という世論も予想されますが、それは「ザハが悪い」というネガティブキャンペーンに影響された見方だと思います。ザハチームの提案はデザインや造形だけでなく、技術的にも世界各地での経験をもとにしたスタジアムの最新形が提案されていた。ここで理由なく間に合わせの巨大な失敗作を選ぶしかないとしたら我々建築関係者だけじゃなく日本社会にとって大変に不毛な結末です。

だから、これからの1つの選択肢は、政府がザハ・チームに花道をつくって名誉を回復するように努めること。

――花道?

世論が許さないから、ザハ・チームは今後の設計には参加できないかもしれない。

だから、これまでザハ・チームが積み上げた基本設計の内容を公開してもらう。その知見を基にしてコンペをする。ゼロから検討するよりはるかに効率的ですし、場合によってはザハチームを含む新しい設計チームがコンペで再度選ばれることもあってもいい。

これをやらずに、ザハの設計をなかったことにしてしまうのは、発注者の倫理として問題があると逆に指摘される気がします。国際コンペで選んだ建築家に対して、それで本当にいいのかと。場合によってはイギリス政府を巻き込んで国際的な問題になる可能性もあるでしょう。国際コンペではしばしばそういうことが起こります。

――ザハ事務所はどんな協力でもする用意があるというふうに言っていますね。

実際ザハチームはこれまでもいろいろ提案はしていたようです。そもそも開閉装置が前提だから、アーチの部材が大きくなり、空調が必要になり、そのぶんコストも高くなっていたわけで。要件が多かったからコストが膨らんだというだけの話。開閉式屋根もいらないし、空調もなしでいいから、とスペックを落とすようにザハ・チームに減額案の作成を頼むのが最も合理的です。

ザハ事務所は今や世界中でプロジェクトを展開するトップクラスの設計事務所ですし、ARUPという最高のエンジニアリング集団と組んで、さらに日建設計や日本設計、梓設計、アラップジャパンによる日本側の設計JVからなる新国立チームには国内外で最も優秀な設計者たちが集まっていたわけで、彼らがチームを組んで2年間も設計を行ってきていますから、新しいスペックを出せば、それに従って誰よりも上手くまとめるはずです。

キールアーチという構造をザハ・ハディドが提案したからコストアップした、ザハのせいだ、という単純化された情報に国民全体が巻き込まれて間違った流れになってしまったのは本当に悔いが残ります。隣に建っている槇さんが設計した東京体育館だってキールアーチなのに(苦笑)。

――もちろん我々メディアも含め、業界外は、何回も何回も調整して往復を重ねながら、予算やデザインを詰めていくという建築の実態をよく理解できてなかったのでは、というのはすごく感じます。

そうですね。私も建築を最初に勉強し始めた時に思いましたけれど、すべてが小さい意思決定の積み上げなんです。最初にインスピレーションが湧いてパッとつくるということはほとんどない。最初はわりとシンプルなところから始まって、さまざまな調整と検討を積み上げていくプロセスは意外と地味です。

ただ建築業界は発注者と受注者という関係を前提に動いているので、発注者と受注者が揉めている案件について、「キールアーチが問題じゃない、発注の要件が問題だ」と業界関係者が発注者の姿勢を公に批判しづらかった部分もあったと思います。

でも、私たちの仕事の実態は、日頃から建築関係者がもっと社会に対して示しておかないといけないんじゃかなという問題意識はあります。

――プロセスそのものが「建築」だと。

そうです。結果の作品性とか芸術性を強調しすぎると今回のように足下をすくわれかねない。プロセスこそをもっと表現していかないといけないんじゃないでしょうか。

今回も、コンペ審査の議事録がもっと早く公開されていれば、ネットであんなに炎上することはなかったかもしれない。関係者が密室でものごとを決めようとすると余計な憶測を呼んでしまうし、それらが今回のようにネットで結びついて大きな力を持ってしまうこともあるということに注意しなければならない。そういう時代なんだなと改めて思いました。

大学で学生の点数つけるのでもそうですから。密室で評価すると不満が溜まってしまって、「なんでアイツがAで俺がBなんだ、単に先生と仲がいいからだろ」となってTwitterで書かれる。評価を目の前でやるだけでまったく変わります。

――納得するんですか。

案外すんなりと。やはりプロセスに参加しているだけで違うんです。それが社会の縮図なんですよね。

新国立も、審査の経過を非公開にした結果「安藤の一声で決まった」という憶測が流通してしまった。でも、議事録を見たらそんなことはない。可動席や動線計画、音響や省エネ技術など技術的な与件について様々な観点から検討が加えられたうえでザハ案とコックス案らが比べられて「2位のコックス案は完成度は高いけれど、オリジナリティがない、モニュメント性に欠ける」と。だからザハを選ぶんだ、と委員会としてはっきり結論づけているわけです。技術的な課題は認識した上で人々に夢とか希望とか挑戦しようと思わせるような案ということを重視して選んだなということがよくわかり、特に不自然な議論ではないと思いました。

■「ザハ案は、日本のチャンスだった」

――ザハは最初の絵を描いただけでなにもせず、そのムチャな設計が高コストを招いた、というストーリーは間違いだと。

それはそうです。

世界的な建築家に設計は依頼するけれども、お金が足りないから、間に合わないからと言って、途中から地元の人たちだけでいいようにやってしまうと、本当に建築家はお飾りになってしまう。これまでもバブルの頃などによくあったし、今も実際よくあるんです。建築家には絵だけ1枚描いて下さい、その絵をもとにローカルの設計事務所が図面を引いて、有名建築家が設計したことにして宣伝に使おう、というもの。それは建築家が手を抜いているのではなく、あれこれ提案されてやり取りするのは面倒だから「絵だけ描いてくれればあとはこっちでうまくやりますから」という発注者が多いということでもあります。

でも、グローバルに建築家が競争にさらされている今、作品の評価だってそんなに甘くはないんですよ。絵一枚じゃなく、どれだけ労力とお金をかけて現場に介入するかってことをやり続けたチームだけがいいものを造って、競争に勝って、世界的な建築家になっていく。ザハもそうです。「アンビルドの女王」と呼ばれていたのは30年前の話で、今やザハの事務所は世界中にプロジェクトを抱え、経験を積んで、世界中から優秀な人材が集まる設計事務所になりました。それは各地で様々な圧力に耐えて、いろいろな場面で勝ち抜いてきて、クオリティを保って作品を残してきたからで、そういうことはもっと知られてもよいと思います。

今回のプロジェクトでザハ事務所と日本側の4事務所で実際の役割分担がどうなっていたのか詳しくは知りませんが、ザハ事務所の日本人スタッフのひとりが言っていたのは「ザハ事務所の基本的な設計の考え方を伝えるのに苦労する」ということ。ザハ独特の流線型のデザインを3次元のまま設計していくために使うソフトウェアがザハ事務所と日本側とで違ったりする。そういう環境の違いを乗り越えて考え方を共有するために骨身を砕いているということでした。建築家が構想した内容をその通りに建てるためには、こうした努力が欠かせないんです。

――まだ日本では、二次元でやっている?

ザハ・ハディドやアメリカのフランク・ゲーリーが実践している3次元の曲面をもとにした造形というのは彼らが独自に開発してきたところもあるので、まだ一般的とは言えない。建築分野では世界的に見て最先端の設計技術だと言えるでしょう。日本でもそれをしっかりマネージできるのは限られた事務所だけだと思います。

3次元の曲面で設計するというのは、例えばカーデザインの領域では既に20年前に起こった技術革新で、日産のセフィーロなどが先駆けでした。それまでは車体をシャーシとドア、バンパー、ミラーなどの各パーツをバラバラで設計して製造して組み立てていたものをコンピューター上で一体で設計するようになって、各パーツを一体で設計して平滑に納める「フラッシュ・サーフェイス」のようなコンセプトも生まれた。今そのへんを走っているクルマはみんなザハ・ハディドみたいでしょう(笑)。

そういう新しいデザインの考え方が設計技術と施工技術の進歩と共に、建築にも入ってきつつあるんですね。これから、ザハやゲーリーのような複雑な3次元曲面の設計が、手の届くコストの範疇でどんどんできていくようになる。今ちょうど、アメリカやイギリスがそういう技術革新の最中で、教育も含めて大きな改革が進もうとしています。日本も国際的な動きに追いつくための改革にはいいタイミングだったと思います。新国立のプロジェクトを成し遂げて日本のトップの設計事務所やゼネコンがザハ流の3次元設計を経験して、技術革新して世界標準にバージョンアップすることは、いいチャンスだったのではないかと思います。

安藤さんが有識者会議や記者会見で言っていた「ザハ案は日本のチャレンジ」というのはこのことなんですよ。

――業界的にも大きな節目になるはずだった。

そうですね。もしできていたら、その後の建築物の設計にもいろんな波及効果があったはずで、1964年のオリンピックでは丹下健三の代々木競技場が実現して日本人建築家の評価が大きく向上し、文化面で欧米から馬鹿にされなくなりました。同じように今回のプロジェクトも海外展開で出遅れている日本の建築業界が国際的な競争力を獲得するチャンスのひとつになり得たと思います。そのチャンスが失われたのは、長期的に見てもとても残念です。

加えて言うなら、これは建築業界の発展に限った問題ではなく、国益に関わる問題かも知れません。例えばドイツでは第二次世界大戦で国際社会から孤立してしまったことを反省し、現在では公共建築の設計で積極的に国際コンペを開催し、海外建築家に積極的に門戸を開いているとアピールしています。国のシンボルである国会議事堂ですらイギリス人のノーマン・フォスターをコンペで選び、ナチスドイツの罪滅ぼしをしている。「ザハたちもこの仕事やりたかっただろうし、かわいそう」というような個人的な問題ではなく、国際社会での日本の立ち位置に関わる問題でもあります。

なぜかというと、これから新しい減額案がザハ事務所を外したかたちで提案されて「なぜ現在の設計チームが担当することが不適当だと判断できたのか」を日本政府が論理的に説明できなかった場合、ザハ事務所は国際市場に開かれるべきプロジェクトで外国人を不当に排除したと主張できてしまうのです。市場の開放性は国際社会ではとてもセンシティブな問題なので、ザハ事務所は今後他の国で仕事することを考えてイメージダウンとなる訴訟はしないまでも、何らかの政治的なアピールはするかも知れません。

日本は今、国内的な建設市場が縮小傾向にあるから、2020年以後は建設業も製造業のように国外の市場に活路を見出さなければいけないわけですが、そこで日本人建築家や日系企業の活動がしにくくなる、今回の問題はそういう負の波及効果を持ってしまう可能性もあります。製造業が海外の政治動向に大きく左右されるように、建設業の円滑な海外展開を支援できるかどうかは、日本の経済にとって大きな問題です。年間3%の経済成長がないと今の医療・年金制度は維持できないわけですから、日本の重要な産業である建設業の業績は国民生活にとって重要な意味を持ちます。

なぜ実務家の多くがザハ・ハディドを支持するのかと言えば、以上のような理由が思い浮かぶからでしょう。政府がまず不当に傷つけられたザハ・チームの名誉を回復して、多すぎるスペックは関係者としっかり調整して削減し、投資額の妥当性をしっかり国民に説明したうえで、またザハ・ハディドのチームに続投してもらって減額案を出してもらうのが国民のために一番の選択肢だと思います。

※ザハ・ハディド事務所のビデオメッセージ公開を受けて、追加コメントを頂きました。

(1)本インタビューは2015年8月17日行われたが、その後8月25日付でザハ・ハディド事務所は新国立競技場に関するビデオプレゼンテーションとレポートを公開した。ザハ・ハディドのチームがいかに複雑な与件に対する入念な検討を行ったか、新整備計画で何を検討するべきか、専門家でなくてもよくわかるムービーである。

http://www.zaha-hadid.com/2015/08/25/video-presentation-report-new-national-stadium-tokyo/

(2)建築家による代表的な専門職能団体である公益社団法人日本建築家協会(JIA)は、新国立競技場の計画見直しに関して、ザハ事務所を含む現設計JVを中心に再設計を行うのが最善だとする提言を7月17日に発表した。

日本建築家協会(JIA)「新国立競技場計画見直しへの提言」(7月17日)

http://www.jia.or.jp/resources/news/000/636/0000636/8g21SmGA.pdf

追記:8月25日付ビデオプレゼンテーションの感想を記す。ザハ事務所が世界各地でプロジェクトを成功させた実績のある事務所であること、アラップの世界各地でのスタジアム設計の経験が活かされていること、日本らしさを重視したデザインの意図、現代のスポーツビジネスの要求や狭小敷地での建設への対応、ロンドンでの失敗の分析と乗り越え方の提案など、きわめて論理的に反論を行ったものであり、とても興味深い。

論議を呼んでいたキールアーチの合理性についてのエンジニアリング的な観点からの分析、収益性についてはオリンピック終了後の最大のユーザーはサッカーイベントであると定義していること、機能性についても北京、ロンドンの経験を活かしてさらにコンパクトな平面計画としていることなどが説明されている。

また当初より議論のあった景観に関しても、スタンドの形状をサドル型にすることで圧迫感を軽減することとチケットを売りやすくすることの意味があること、飲食機能をスタンドの直下に置くことで収益を最大化しつつ、その上部に国産の木材で仕上げられた誰でも通り抜けられる空中歩行空間の提案があることなど、景観に配慮しつつ収益性と両立しようとする意図が丁寧に説明され、驚くほど分かりやすい。

これが世論が盛り上がっている7月初旬にビデオやレポートが公開されていれば白紙撤回は免れたかもしれない。だが、これもザハ事務所らの行動が遅いと批判することはできないだろう。設計チームが契約相手であるクライアントの方針に対して公に批判するのは難しく、正式なプレゼンテーションの機会も用意されなかった。契約が破棄されたからこそ自らはっきり態度表明できたのだろうと推察される。今からでもできることを考えて行動することには今後のためにも価値がある。

むしろ設計者自らの申し出にも関わらず公にプレゼンテーションする機会、もしくはヒアリングする機会すら設けず世論に惑わされ白紙撤回を決断してしまったJSCや首相官邸の責任こそが今後問われていくだろう。

今回のビデオメッセージは主にザハ・ハディド事務所とアラップという海外側の発信であり、国内4社の声明ではないが、海外事務所だったからこそアピールが可能であったという見方もできる。発注者の責任も問われる場面で設計者の責任に置き換えられようとしたが、設計者の冷静な対応によって発注者の責任が問われる機会が生まれたことは、今後のためにまずは歓迎すべき出来事である。

今後は設計案の選考を公開で行うことや、国民に向かって設計者が自らプレゼンテーションを行う機会をつくること、疑義が生じた際には議論の機会を設けるなど、より開かれた設計のプロセスが求められるだろう。

新整備計画のなかでザハ・チームの名誉が回復され、彼らの2年間の蓄積が活かされた減額案が作成され、公平な選考プロセスのなかで彼らが再度選考され、国民に祝福されるかたちで新しいスタジアムが完成されて、2020年にオリンピック・パラリンピックを迎えられることを望みたい。

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